国風歌舞



(東遊)

 国風歌舞(くにぶりのうたまい)は他の雅楽曲と違い、外来音楽の影響をうける以前から日本にあった古来の歌舞(うたまい)です。「古事記」や「日本書紀」などの神話に基づくものが多く、神道や皇室に深く関わる歌や舞で構成されているのが特徴です。雅楽の中でも目にすることが少なく、なかには天皇の即位式でしか演奏されないといった特殊なものまであります。


東遊(あづまあそび)   誄歌(るいか)



神楽歌(かぐらうた)

 「神楽歌」の起源は日本神話で登場する天石屋戸(あまのいわやど)の物語とされています。この由来から神事行事に用いられ、天照大神などの命日に宮中三殿の賢所(かしこどころ)で行われる「御神楽ノ儀(みかぐらのぎ)」で奏される歌の総称を言います。
 また「御神楽ノ儀」の前半の終わりに歌われる「早韓神(はやからかみ)」と最後に歌われる「其駒(そのこま)」には「人長舞(にんじょうまい)」という舞が付けられます。


久米歌(くめうた)

 「久米歌」は日本書紀の記述で、神武天皇が即位される以前、大和を平定したときの戦勝の歌であるとされています。この「久米歌」は、後に大伴氏・佐伯氏に受け継がれ「久米舞(くめまい)」という舞が付けられました。この舞は応仁の乱によって絶えてしまいましたが、文政元年(1818)に曲と舞が再興され現在に至っています。


東 遊(あづまあそび)

 国風歌舞の中でも比較的目にすることの多いものです。「東遊」については、記・紀のほか和銅六年(713)に朝廷が各地の土地・産物・伝説などを編纂した「風土記」の中にも記述されています。
 「駿河国風土記」の中にある、天女が舞い降りて水浴をするという羽衣伝説から作られた歌舞であると伝えられており、「阿波礼(あわれ)」・「一歌(いちうた)」・「二歌(にうた)」・「駿河歌(するがうた)一段」・「駿河歌二段」・「求子歌(もとめごうた)」・「大比礼歌(おおびれうた)」から構成されています。また演奏の際は「狛調子(こまぢょうし)」・「音出(こわだし)」などの篳篥と高麗笛の二重奏が入り、「駿河歌」には「駿河舞」・「求子歌」には「求子舞」が付けられます。


大和歌(やまとうた)

 「大和歌」は元々、「大直日歌(おおなおびうた)」・「大和歌」・「大歌」・「田歌(たうた)」の4曲で構成されていましたが、近年、「大和舞(やまとまい)」で使用する「大直日歌」・「大和歌」の2曲のみを大和歌と呼ぶようになりました。また、「田歌」は現在使われなくなっています。
 かつて「大直日歌」は節会(せちえ)の前夜に歌われる歌曲であったと言われていますが、現在では「大和歌」とともに舞われる「大和舞」の前奏曲として使用されています。


大 歌(おおうた)

 天武天皇が吉野の離宮で琴を弾いていたときに、前にある山の峰から乙女が舞い降りてきて歌い舞ったという故事が「大歌」の起源とされています。この「大歌」を伴奏に舞われるのが「五節舞(ごせちのまい)」と呼ばれるもので、5人の舞姫によって舞われる、現在唯一の女性の舞です。
 舞姫は十二単(じゅうにひとえ)に髪をおすべらかしにして、手に檜扇(ひおうぎ)持って舞います。この「五節舞」は天皇の即位の大礼の饗宴でのみ演じられる特別な舞です。


誄 歌(るいか)

 天皇の命令によって各地を平定した「倭建命(やまとたけるのみこと)」が、帰路の伊勢の国の鈴鹿群能煩野(のぼの)で病死された際、后(きさき)や子供が能煩野に行き、御陵を作り、丁重な礼葬をして、泣きながら4首の歌を詠まれた、と古事記に記されています。この4首の歌のことを「誄歌(死者生前の功徳を称える歌)」と呼びました。
 この歌も「久米歌」と同様に絶えていましたが、明治天皇の御大葬(おおみはぶり)のときに再興されました。昭和天皇の御大葬でも「誄歌」を奏したように、天皇が亡くなられたときのみに奏される特別な歌です。


悠紀・主基(ゆき・すき)

 天皇即位に伴う皇室行事・大嘗祭(だいじょうさい)のなかで行われる、悠紀殿の儀・主基殿の儀で歌われ、その後の饗宴で舞われる「悠紀地方の風俗舞」・「主基地方の風俗舞」を総称して「悠紀・主基(ゆき・すき)」と呼びます。この「悠紀・主基」は、これらの行事のために新しく作られる歌舞で、例外を除いて再演されることはありません。
 「悠紀・主基」の創作は、都から東北方向を悠紀地方・南西地方を主基地方として、ト占(亀の甲を焼いて、その割れ目で占う)によって場所が決められることから始まります。平成の場合は、悠紀地方が秋田県南秋田郡五城目町・主基地方が大分県玖磨郡玖珠町でした。こうして選ばれた「悠紀地方・主基地方」の風景や地名を詠み込んだ歌を4首づつ作り、曲が付けられた後祭祀の中で歌われます。また饗宴では、更に舞も付けられて雅楽舞台で舞われます。